映画をつくるということ(初心)

2006年に会社を設立してすぐ、CMやPVや番組などの請負制作ではなく、映画をつくりたいと思った。ジャンルはとくに考えてなく、ただ誰かの指示ではなく自由に自分が観たいと思う映像をつくりたいと考えた。

 

そう思った時、喰うための仕事とは別の仕事とするしかないと思い、どうやってつくればいいのか思案(想像に近い)しまくった。つくるという作業(工程)は知人から聞くこともできたし書籍からも知ることができたが、それはひとりでできるのか、どのくらい時間がかかるのか、何を身につければいいのか、ひとりでできないとすればどのくらいお金が必要なのか、思いは底知れぬほど深かった。

 

まずは、すべてひとりでできるところまでやってみる、というプロットをつくることにした。まず考えたのは、興味のある物語を役者が演じて表現するという劇映画は役者が必要でこれはひとりではできないと思い、ロードムービーとかドキュメンタリーというジャンルのものがいいと考えた。これなら、ビデオカメラさえあれば、被写体を撮りさえすればよい(という合意許可も必ず必要である)。撮った映像をPC(私はmacです)に取り込み、きったりつないだり、テキストを挿入したり、画像を挿入したり、編集ソフトの使い方を学習することで表現を(一部分)することができた。次に音、会話などから表現したい部分を切り取り映像にあわせ、雑音(背景から聞こえる環境音)を聞き取りやすくし(イコライザーなどを使用)、言葉だけでは足りない表現を音楽やサウンドエフェクト(SE)で補い、最後に全体のボリュームを整えるということを専用のソフトウェアの操作を学習することでできるようになっていった。

ここまでのところは、短編(5分以内程度)ならできてしまう。表現したい思い(メッセージ)の一部はできてしまう。書籍に例えれば、目次の第1章第1節という程度だろうが、問題提起ぐらいは可能であると思う。理屈はともかく一番最初に困惑したのは、つくれそうだと思ったところで、何を(どんなメッセージを)表現しようかということである(経験を積んできたいまなら伝えたいことがたくさんあることに気がつくが、当時はそうでもなかった)。自由につくりたい(表現したい)ものをつくろうと思ってはいるものの、観た人がどうおもうだろうかなどと(誰も観てくれないかもしれないなども考えられなかったし)自分が表現したいことへのバイアスが意識のなかに大きく働きすぎいて、自由ってのは実際はとても大変なことだとその時に知ったほどだった。結局、とりあえず自分がカッコいいと思うものでクスってニヤけるものにしようと、そこからはじめることにした。

カメラだけは自分で購入し(私はヤフオクで中古からスタート)、ソフトは無料のものを検索しインストール、マニュアルがわりに誰かのブログやyoutubeを参照しながら見よう見まねで操作できるようにしていった。誰に観られて批判されてとか考えなければ、映像をつかって表現することは最初にそんなお金がかかるものでもなくモノづくりの一歩を踏み出すことができた。そこからなんどか(いくつか)同様に撮って編集するを繰り返ししていくうちに、私は面白いと感じるようになり、結果現在にいたっている。

 

 

以前の私は、職種柄パワポプレゼンが唯一の表現手段でした(もっと昔、学生のころは音楽が表現手段だったこともありました)。いずれも見て聞いてくれる相手がいることが前提でしたが、現在の表現は相手にではなく自分の思いを残す(表現し記録する)ということに変化してきました。そのなかの自分自信の思い(理想とか憧れ)を実現しているヒトを撮って記録することが私の仕事だと思うようになりました。いまは理解されないかもしれないけど、何十年か後に理解者が現れるかもという思いだけでも残しておきたい、現代の多種多様な個性を受け止められるのであれば、是非、映像表現を使って記録してみませんか。私はこのような活動を(個人的に)歴史家と(勝手に)思っています。

 

次回は、長編をつくりはじめたときのことなどを記載したいと思います。

 

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